人間と愛と自由

 石川達三が70歳の時に再編集した本。昭和22年から昭和46年までに書いたエッセイ集である。五部構成で、おおまかに宗教観、海外旅行、結婚観、教育論、道徳論と続いている。

 おもしろいと思った話を紹介したい。

 <犬について> 欧州を旅していると、奇妙な形をした犬ばかりに出会う。「地を這うが如くに足の短いもの、針金細工のように痩せて細いもの、全身毛に被われて目も鼻も見えないようなもの、さらに、背と頭との毛を抜き去り、足首のまわりに一塊の毛を残し、まるでズボンをはいたような形に造り上げられたもの等々。」「東洋では」と前置きをし、秋田犬、土佐犬、紀州犬、柴犬をほめるが、昭和26年以降、犬の輸入が再開され、海外から様々な種類が入ってきた。今の日本で飼われている多くの犬種を見たら、どんな表情をするのだろうか。昭和35年の話。1)

 <新しい太陽を> 女性は家庭におさまるべきだ、という話。結婚し、子どもを養育し、三十年努力を積み重ねていけば、「その母は堂々たる自分の人生を気付いたとは言えないだろうか。それこそ真の意味の自由である。」という。しかし彼の「洒落た関係」では、多くの夫婦、男女間のもつれた関係を描いている。「『自然なことだ、人に知られず誰をも傷つけなければ良いではないか』と主人公の風見は言う。」2)

 <浪費教育> 大学には二つの目的がある。ひとつは学生が実生活に必要な教養を身に着けることであり、もうひとつは純学術的な、或いはいくらか趣味的な研究をするということである。「少なくとも大正の初めころまでは、大学卒業者には一つの権威が与えられており、職業の上においても優越した地位が保障されておった。」その後大学の数がふえ、卒業生が増えるにしたがって、「学士という肩書には何の権威も」なくなった。今では大学での教養は卒業後の職場で生かされることはなくなり、「今日の大学は、職業を得るための手ずるであったり、結婚のための資格であったり、要するに学問以外の目的に横すべりしているような状態である」。教育者たちは戦後、急激にかわった方針や法律制度に自信を失ってしまったようである。しかし「いかなる時代でも、教育者は」「それだけ旧時代の人間であることには、かわりはなかったのだ。」「教育者は自分たちが学び、経験してきた、古いものを学生に授けていけば、それでいいのである。」彼は日本の青年たちは、大学出という肩書きを得るために、数年間を無駄にすごしてしまい、それを繰り返しているという。そしてこれを書いたのが昭和35年である。仮に彼のいうことに一理あるとすれば、それから60年間、日本では大いなる無駄や浪費を繰り返してきているのだろうか。

人間と愛と自由

石川達三

1975

新潮文庫

参考資料

1)戦後の畜犬史

2) Picuki

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