反共感論

社会はいかに判断を誤るか

 人は互いに共感を抱くべきである、というお説教を、何万回聞かされたことだろう。学校ではもちろん、多くのテレビ番組でも頻繁に強調される。しかしその理由は何なのだろうか。共感を抱くことはいいことなのか、周りの人が幸せになるのか、これまで考えてみる機会はあまりなかった。

 他者に共感を抱くと、自然に相手の幸せを願い、親切を示すようになる、というのが、よく耳にするお説教の本論である。いや、不幸に見舞われている人を目にしたときに、その人の辛い状況をよく理解するならば、我慢できずに自然に手を差し伸べてしまうだろう、というのが正確である。しかしよく調査すると、その説は根拠に乏しいことがわかってきた。

 共感は、人間のみならず、他の動物も持つ能力である。生き物は集団で生活し、命を長らえるためには、協力して仕事を進める必要がある。そしてそのためには他者の考えていること、感じていることをより正確に想像することが求められた。

 筆者は、共感を大きく二種類に分けている。「情動的共感」と、「認知的共感」である。情動的共感とは、「他者が経験していると自分が考えるあり方で、自らが世界を経験するようになることである」。そして認知的共感とは、「あなたの苦痛を自分では感じることなしに理解する、という働きである。」認知的共感のわかりやすい例は、親が泣く子供に抱く感情である。泣く子供の痛みや不安を同様に感じていると、親も泣き出してしまい、手を差し伸べることもできなくなってしまう。しかし健康的な親は、笑顔で子供を助けることが可能である。それは子供の苦痛を同様に感ずるのではなく、よく理解しているからだ。

 共感は、実は親切を呼び起こす能力ではないのかもしれない。むしろ、親切心を示すのは思いやりである。そして、共感と思いやりは、全く別の機能である。その代表が、次の例である。「他者の心を理解するという点では、いじめっ子は通常の子どもにまさる。人をいやがらせるにはどうすればよいかをよく心得ているのだ。だからこそ、実に効果的に他者をいじめられるのである。それに対し、社会的知性や、『認定的共感力』に劣る子どもは、いじめの対象になることのほうが多い。」

 共感は、スポットライトのように注意をわずか少人数に向けさせてしまう。そして、統計的観点で道徳的な判断から目を背けさせることにもつながる。難病の子どもに、短い時間贅沢をさせるために数千ドルの寄付が集まるが、それを一枚数ドルの蚊帳に充てるなら、一体何千の人が救われるのだろうか。

 真に道徳的な判断を下すには、理性を働かせる必要がある。そこには、短期的な快を目指す感情の入り込む余地はない。泣く子供が可哀そうだからと、予防接種を受けさせない親は、やがて子供により重い苦しみを負わせることになる。私たちは状況をよく理解し、より良い結果をもたらす選択をしなければならない。

 余談だが、本書で特におもしろいな、と思ったところは、以下の記述である。「そもそも他者は自分と同じであると仮定されている。この仮定は間違いであり得る。」たとえば自分が抱きしめられるのが好きという理由で、イヌもそうされたがっていると考えている人は多いが、」「犬は先天的に抱きしめられるのを好まず、いやがるらしい。」

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