日本史百話

 はしがきは、「日本史の書きかえが叫ばれてからもう八年になる。」とはじまる。本書はあらゆる資料をまとめなおして語るのではなく、古典の現代語訳を順序よく並べ、さらに必要な時に解説を添えている。期間は原始時代から徳川時代末まで。今まであまり古文や日本史を学んでこなかったが、本書は初学者にもわかりやすく、また一話ごとちょうどよい長さにまとまっているため、とても覚えやすいつくりになっている。中でもおもしろいと思った話を紹介したい。

 984年(永観2年)から986年(寛和2年)の間在位した、花山(かざん)天皇のお話。藤原兼家は、前の関白、兼道の弟であり、かつ彼と仲が悪かった。兼道が自分よりも出世したことに不平をいだいており、挽回を図っていた。兼家は、時の花山天皇を位から降ろし奉り、次女である藤原詮子の息子、懐仁親王を位に即けたいと思っていた。花山天皇は、寵愛した女御、忯子(よしこ)が腹に子を宿したままおかくれになり、悲嘆にくれておいでになっていた。兼家はこの状況を利用すべく、子の道兼を通じて、花山天皇に出家をすすめた。天皇は、道兼の「私もお伴に出家いたします。」という言葉を信じ、出家を決心する。道兼は花山天皇の剃髪をとても急かしたが、それを見届けたときに、「このままの姿をもう一度乳に見せとう存じます。」として出て行ってしまった。騙された天皇は泣き、一条天皇(懐仁親王)が即位された。そして兼家は摂政になれたという。

 また戦国時代以降、渡来人が見た日本の話もおもしろい。安土桃山時代の宣教師の話。「子供をそだてるのには、決して罰を加えず、言葉でいましめ、六つか七つの子供にむかっても、七十の年寄を相手にするように、まじめに話して叱るのである。身分の高い人はみな礼儀正しく、教育はすすんでいる。」

 長崎での黒船焼き討ちについては、初めて学んだ。慶長14(1609)年、有馬修理大夫晴信が、ベトナム北部の交趾(こうち)に奇楠(沈香木)を求め、船を出したが、洋上で大風に遭い、マカオに漂着した。船の修理に数日を要したが、その間に乗組員が現地のポルトガル人と喧嘩をし、日本船員五十名は悉く殺害され、財宝も奪い取られてしまった。10月にはマカオから長崎に黒船が来航し、その中に、先ほど喧嘩した者も乗り組んでいた。高来有馬の城主が復讐に名乗りを上げ、もちろん乗組員の中には関係のない者もいるから、船長をとらえて詰問すべしという手筈になっていたが、黒船の乗組員はそれを漏れ聞き、帆を揚げて走り出した。有馬の人々は驚き、用意していた兵船及び乾草をつんで焼き討ちにするための船と共に、追いかけた。黒船は必至で逃げるが、ついに風向きが変わり、前に進めなくなる。遂に撃ち合いも始まり、やがて風上の焼草船が流れかかって黒船に燃えつく。外人達も今はこれまで、焔硝に火を放つ。戦闘は実際には12月のこと、これは日本と西洋の国との第一戦となった。ポルトガル領インドのゴア総兵官は、多額の賠償金を求めたが、徳川家康は本多正順を通じて、やむなくとった非常手段である、と弁じ、その後修交を続けるための朱印をゴアの使者に授けた。

 繰り返しになるが、本書にあるすべての話が、古典の現代語訳であるため、安心して読むことができる。百話も読めば、ちょっと物知りになれる。

日本史百話

笠原一男

井上光貞

安田之久

1954

山川出版社

参考資料

tabiyori

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