鈴木商店とは、明治から昭和にかけて拡大し、昭和恐慌のもと、解散し、後の会社に道を譲った会社である。「明治7(1874)年に鈴木岩治郎が神戸に洋糖引取商として創業」したが、明治27(1894)年、岩次郎が死んでしまう。岩次郎の妻である鈴木ヨネのもと、金子直吉と柳田富士松が音頭をとって再出発することになった。当時直吉は数えで29歳であった。

 明治26(1893)年、後に支配人と呼ばれる西川文蔵が入社。明治43(1910)年には高畑誠一が入り、明治45(1912)年、27歳のときにロンドン支店長になる。本書では金子、西川、高橋の三人が中心となる。明治45年時点で、金子は50歳、西川は35歳であった。

 金子直吉は、ドイツ人の商会に樟脳を売りにいったが、買ってくれなかった。薄荷なら買ってやると言われたため、直吉は日本中の薄荷を買い集め、全国の5割以上を独占した。その前から台湾民生長官後藤新平に接近し、製脳官営化に賛成。薄荷のシェアを取ると、樟脳での利益も狙いに行く。後藤は樟脳を台湾総督府の直営にしたかったが、多くの樟脳業者から猛反対を受けていた。そこを突然直吉が反対運動を切り崩しにかかると、「もともと緊密でなかった業界の結束はみだれ、製脳は官製となる。鈴木商店は、6割5分の販売権を得た。樟脳は、セルロイドの原料となり、需要は高かった。

 大戦勃発後、目をつけたのは鉄と船舶である。「連合国船舶は、あちらこちらでドイツ軍艦に拿捕され、撃沈される。」貿易は混乱し、一時滞った。直吉は商品不足間違いなしと見込み、鉄と船舶を大量に発注した。船舶については、三菱造船所に一万トン級貨物船三隻を発注し、自ら播磨・鳥羽の二つの造船所の経営もはじめる。また船を発注しながら、造船所に鉄を売りつけた。

 高畑は、ロンドンに住み込み、ヨーロッパやアメリカに売り込んでいながらも、日本国内の考え方に留まっている日本の鈴木商店に改革・改善を訴えるが、日本には明治生まれの直吉がいる。銀行嫌いで、金は台湾銀行からしか借りない。台湾銀行は、前述の後藤に紹介されていた。

 一次大戦も過ぎ、大正7(1918)年、米騒動が起こった。一次大戦から始まる好景気に伴い、労働者は農業から工業に移り、シベリア出兵、農家民自身が米を食べることも増え、米価が急騰した。鈴木商店は既に多くの船舶を抱え、輸出入に長けていたこともあり、外米輸入商に指定され、また同年5月は外米再輸出が禁じられた。指定輸入商による売価と利益は定められており、船腹を他の商材に利用する方が利益を得られたところを押さえられてしまった。西川は、「指定承認は政府への御奉公として神妙に立働くは差支へなきも、」余剰在庫の処分で損失が出るのではないかと気がすすまないでいた。米価は8月まで上がり続け、民衆の不満を新聞が煽り立てるように書く。そして鈴木商店が売り惜しみ、利益を余計に上げているのではないか、と噂され、8月12日、怒り狂った群衆が、周りの米屋と合わせて鈴木商店本店になだれ込み、火をつけた。

 本店が焼けたこと自体は、鈴木商店の破綻には直結しなかった。しかし、狙われてしまったこと、また他の経営の方法が新しい時代にそぐわなくなってきた。大正12(1923)年、株式会社鈴木商店に移行し、その下の多くの会社が分けられた。その中には、帝人や神戸製鋼所も含まれている。

 鼠というのは、直吉の妻、徳の手引きで俳句を習い、自らつけた俳名、「白鼠」からとられている。

城山三郎

1966

文芸春秋

参考資料;

鈴木商店記念館

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